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~代表あいさつ~「ITエンジニア」にはなれなかったが、価値を向上させることはできる(代表取締役社長 久利鋭一)

はじめまして、アン・コンサルティング株式会社、代表取締役社長の久利鋭一です。
当社初めての試み、「note」がスタートしました。
本日は、私の自己紹介アン・コンサルティングを創った想いや背景をお話したいと思います。


わたし紹介「久利鋭一」って?

1975年5月1日生まれの48歳、香川県出身です。(香川県といえば、うどんですよね。地元にいた頃はよく食べていました。)
元々野球少年だったこともあり、幼少期は毎日のように走り回っていました。
趣味は、ジムでのトレーニング、ランニング、海外アーティストのライブに行くことで、特にハードロック系の「Korn(コーン)」「Metallica(メタリカ)」「Guns N' Roses(ガンズ・アンド・ローゼズ)」が好きです!
私生活では今年17歳の息子がいて、先日サンフランシスコへ旅立っていきました。(息子よ、世界を感じて沢山成長してきてなーー!)

「建築」から「IT」への興味

私のキャリアのはじまりは「建築」でした。
父親が建設業界にいたため、その影響で私も興味を抱き、高校も建築学科を専攻していました。その後地元の工務店でキャリアを積み、0から1を生み出す仕事、建築物としてこの世に形が残るということにとてもやりがいを感じていました。
ですが、当時建築業界にもIT化の流れがあり、アナログな手法からCADソフトで設計することなどが当たり前になってきました。ちょうどこの頃、私自身システムやソフトに興味を持ち始めたのを覚えています。
「新しい波を掴むためには東京だ!」と、23歳の時に地元香川県から上京、「せっかく東京に来たなら、東京でしかできない経験をしたい」と思い、原宿のアパレル会社で働き、そこで出会った友人と輸入会社を設立しました。
当時珍しいオーダー製品の買い付け事業だったこともあり、2年程で軌道に乗りましたが、長期的に継続していくことに不安を感じ、会社を解散。上京した理由を改めて見つめ直し、IT業界を目指すことにしました。

「人材事業」との出会い

当時、時間があったので、平日はよく千葉の海でサーフィンをしてました。
そして、その海で私にとって人生が変わる、大きな出会いがありました。

ある日、波待ちをしている時に一人の男性に声をかけられました。
平日にサーフィンをしている人は限られてくるので、自然とお互い顔見知りになります。私もこの男性を見たことがありました。
最初は平日サーフィン仲間として趣味の話をしていたのですが、はじめましての会話って「趣味の話」の後は、だいたい「仕事の話」になりますよね。
私は、友人と輸入会社を立ち上げた話、そして将来に不安を感じ会社を解散したことなどを話しました。
するとその男性は、「自分はとある人材事業会社の代表をしている」と話をしてくれました。人材事業の素晴らしさ、社会貢献性、将来性など話を聞いていく中で、私自身あれよあれよと吸い込まれ、その男性と意気投合、当時24歳の私はその会社の初期メンバーとしてジョインすることになりました。
ここからの6年間が、私の仕事・仲間・事業に対する考え方の基礎になっています。
この会社は、当時人材事業とモバイル開発の2軸で事業展開をしており、私は人材事業部にて、SES・派遣・人材紹介と事業の開発や運営を経験しました。
その後、2007年に会社は上場、社員も増え、会社の規模も大きくなり、海外事業なども経験させてもらいました。
毎日終電まで仕事☞そこから遊びに行く、休みはほぼなし、というかなりハードワークでしたが(笑)今振り返ると、人材事業と経営の多くを学ぶことができた貴重な時期だったと思います。

「人材事業」と出会った
九十九里浜の海@AM5:50

リーマンショックで感じた「〇〇さ」

31歳、一通りの事業経験をし、漠然と次のステージに向けて転職先を探していた時、取引先の大手広告代理店のIT子会社の部長にスカウトいただき、転職を決意しました。
今まで経験していたベンチャー企業とは異なり、大手ならではの仕事の仕方があり、正直戸惑う事がとても多かった記憶があります。
ですが、広告や金融システム、大手ならではの開発方法や仕事のまわし方などを経験できた事は、後の起業時に大いに役に立ちました。
この頃(2008年)世の中ではリーマンショックが起こり、景気はドン底に・・・。各社リストラが行われ、管理職だった私はITエンジニアに解雇を伝える立場でした。(当時の会社は理系卒の学生を採用するのではなく、文系卒の学生をエンジニアとして1人前に育てていくという仕組みでした。)
リーマンショックというのは残酷で「即戦力ではない」と判断される若手からリストラをしていきます。私自身採用にも一部関わっていたため、世の流れとはいえ、私が入社させた子たちの人生を、ITエンジニアの可能性を活躍すべき環境であるシステム会社がつぶしてしまう、という状況にやるせなさを感じ、改めて自分のやりたいこと、やるべきことを探し始めました。

「ITエンジニア」への憧れ

実はこの頃、「ITエンジニア」へ興味を抱き、独学でプログラミングの勉強をしていました。
元々、建築の仕事をしている時に0から1を生み出すことが好きだったのもあったので、同じくシステムをゼロイチで作り上げる「ITエンジニア」へ憧れがありました。(ちなみに、Java習得を目指していました。)
プログラミングは簡単に習得できるものではなく、約7か月挑戦しましたが案の定挫折をし、私の今まで経験してきた「営業職」として生きていくことを決意しました。
プログラミングを自らが経験したことで、漠然と抱いていたITエンジニアへのリスペクトが、より大きくなりました。

アン・コンサルティングのはじまり

この頃、海外と日本のエンジニアに対する評価の差を感じる出来事がありました。
自分はITエンジニアにはなれなかったが、ITエンジニアの価値を向上させことはできる」と思い、36歳、アン・コンサルティング株式会社の起業を決意しました。
ですが、起業して約3ヵ月経過した頃、2011年3月11日に東日本大震災が起こりました。
この時にある一つの思いが心に残りました。それは「どんなに人類が発展しようが、自然の力の前では無力なんだ」ということです。
人の人生は一瞬で無くなるという現実を目の当たりにしたと同時に「人生は一度きり、この挑戦を絶対に成功させてみせる」と心に誓いました。
しかし、当時景気はドン底、愛すべき息子は4歳、どう考えてもリスクしかない状況で、背水の陣でした。

2012年2月、恵比寿に構えた2番目のオフィス
約10畳を2つにわけて、無理やり会議室を作った覚えがあります。

当初3名で起業したアン・コンサルティングですが、徐々に私の想いに共感してくれる仲間が増えていき、現在は東京本社・大阪支社・福岡支社の3拠点にて事業を展開、従業員数も60名を越える規模になりました。
あの時の「自分はITエンジニアにはなれなかったが、ITエンジニアの価値を向上させことはできる」という想いは変わらず、サービスラインナップも「フリエン」「チョクフリ」「フリエン転職」とITエンジニアの価値向上を目標に拡大してきました。

2023年3月、事業拡大に伴い
本社を恵比寿ガーデンプレイスタワー29Fに移転しました。

これからのアン・コンサルティング

当社は「新しいはたらくを創る」という理念を掲げ、人材不足でお困りの企業とフリーランスITエンジニアの架け橋となり、「人材」という側面で日本のイノベーションを支えていきたいと考えています。
これからのイノベーションはITの力なくしては起こりません。その真ん中には、必ず「ITエンジニア」の存在があります。
そのITエンジニアをサポートし、未来を共に創っていく、そこに我々のパーパスがあります。
これからも「新しいはたらくを創る」という理念を掲げ、共感・共鳴する仲間たちと未来を創っていきます。

「新しいはたらくを創る」アン・コンサルティングの仲間たちです!

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